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2007年08月18日

●私は果たす「故・中田君との誓い」


私は果たす「故・中田君との誓い」

 日本は発展途上国への支援(政府開発援助=ODA)はもとより、紛争地域での難民救済等のため多額の資金援助や物資援助をしています。
 1990年(平成2年)にぼっ発した湾岸戦争の際、日本は90億ドル、日本円にして1兆2000億円もの資金援助をしたのにもかかわらず、「お金しか出さない国」「自分達の血は流さない国」という非難を浴びました。戦争終了後、クウェートは多国籍軍を支援した各国の国旗を、感謝の意味を込めアメリカの新聞「ワシントンポスト」に掲載しました。しかし残念ながら、そこに「日の丸」は抜け落ちていたのです。
 この事について、ある日本の外交官がアメリカの高官に意見を求めたところ、「それでは今度は我々がお金を出しますからあなた方が血を流して下さい。」と言われ、返答に窮したそうです。
 湾岸戦争を契機に、私は安全保障問題に全力で取り組み、わが国の国際貢献への大きな一歩となった「PKO法」を可決する事ができました。その後、カンボジア の内戦終結に伴う国連監視下の総選挙で、PKO法に基づく自衛隊派遣が決まりました。私も自分が関わってきたことですから日本の国際貢献の現状を視察するためカンボジアに飛びました。
 
 
そのときの出来事です。
 私たち議員団がプノンペンのホテルに到着するや否や
日本の青年が数人やってきて私達に面会を求めました。

青年
「あなた方は日本の国会議員ですか?」
今津
「そうですよ」
青年
「自衛隊は海外活動をすることは憲法で禁止されているはずですよ。自衛隊の派遣を中止させてください。」
 その後私達は「世界の中の日本のあるべき姿」や、自衛隊の役割や立場について論議しました。
今津
「君たち、選挙を妨害しようとしているポルポト派は銃を持っていて危ないんだから、 自衛隊のように充分に訓練を積んだ人でなければならないんだ。」
青年
「何を言ってるんですか。僕たちはボランティアでカンボジアのためにきてるのになぜその国の人たちが僕たちに危害を与えるんですか?自衛隊ではなくて、私たち青年が日本の名誉のために頑張ります。」 
 2時間くらい話し合ったでしょうか、結局結論は出ずに分かれました。
 しかしその夜私の部屋にホテルのバーから電話があり、昼間の青年がもう一度会いたいというので、ドアをあけると昼間の青年の一人が立っていました。ビールを飲みながら彼は「昼間の話はどうしても納得できません。説明して下さいと」熱い目で私をみつめるのです。わたしは彼と視察に同行していた岡本行夫(元北米2課長)と三人で寝るのも忘れ朝まで話しをしました。
青年
「日本の政治家にも、真剣に日本や世界の事を考えて行動する今津さんのような方がいるんですね。帰ったら今津さんの事務所に遊びに行っていいですか?」
今津
「もちろんだ、私こそ君のような日本人の青年がいてくれる事を誇りに思う。お互い日本の名誉と世界平和のために頑張ろう。元気でな。体だけは大事にするんだよ。また会おうな」
 がっちりと抱き合って別 れました。

 その青年、中田厚仁君(当時25歳)が国連ボランティアとして、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の任務遂行中、現地でゲリラの凶弾に倒れたのは半年後1993(平成五年)4月8日のことでした。