私は果たす「故・中田君との誓い」

日本は、発展途上国への支援(政府開発援助=ODA)はもとより、紛争地域での難民救済等のため、多額の資金援助や物資援助をしています。
1990年(平成2年)にぼっ発した湾岸戦争の際、日本は90億ドル、日本円にして1兆2000億円もの資金援助を行ったにもかかわらず、「お金しか出さない国」「自分達の血は流さない国」という非難を浴びました。
 
戦争集結後、クウェートは多国籍軍を支援した各国の国旗を、感謝の意味を込め、アメリカの新聞『ワシントンポスト』紙に掲載しました。しかし残念ながら、そこに日本の国旗は載っていませんでした。
このことについて、ある日本の外交官がアメリカの高官に意見を求めたところ、「それでは、今度はわれわれがお金を出しますから、あなた方が血を流してください。」と言われ、返答に窮したそうです。

 
湾岸戦争を契機に、私は安全保障問題に全力で取り組み、わが国の国際貢献への大きな一歩となった「PKO 法」を可決させることができました。その後、カンボジアの内戦終結に伴う国連監視下の総選挙で、PKO 法に基づく自衛隊派遣が決まりました。私も、自分が関わってきたことですから、日本の国際貢献の現状を視察する議員団の一員としてカンボジアに飛びました。

 
nakata私たち議員団がプノンペンのホテルに到着するや否や、日本の青年が数人やって来て、私たちに面会を求めました。彼らは、「自衛隊は海外活動をすることは憲法で禁止されているはずですよ。自衛隊の派遣を中止させてください。」と詰め寄りました。
 
その後、青年たちと、国際社会の中での日本のあるべき姿、自衛隊の役割や立場について論議しました。私は、「君たち、選挙を妨害しようとしているポルポト派は銃を持っていて危ないのだから、自衛隊のように充分に訓練を積んだ人でなければならないんだ。」と説明しました。しかし彼らは、「僕たちはボランティアとしてカンボジアに来ているのに、なぜその国の人たちが僕たちに危害を与えるのですか? 自衛隊ではなくて、僕たちが日本の名誉のために頑張ります。」と反論。結局、結論は出ないまま、2時間に亘る話し合いは終わりました。
 
その夜、私の部屋に、昼間の青年の一人が「もう一度会いたい」と訪ねて来ました。ビールを飲みながら、「昼間の話はどうしても納得できません。説明してください。」と、熱い目で私に訴える彼。私は、この青年と、視察に同行していた岡本行夫さん(当時の北米2課長)と3人で、寝るのも忘れるほど夢中になって、朝まで語り明かしました。
 
「日本の政治家にも、真剣に日本や世界のことを考えて行動する、今津さんのような方がいるんですね。帰ったら今津さんの事務所に遊びに行っていいですか?」 
「もちろんだ、私こそ、君のような日本人の青年がいてくれることを誇りに思う。お互い日本の名誉と世界平和のために頑張ろう。元気でな。体だけは大事にするんだよ。また会おうな。」
青年とがっちり抱き合って別れました。
 
その青年、中田厚仁君(当時25歳)が、国連ボランティアとして、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の任務遂行中、現地でゲリラの凶弾に倒れたのは、あの夜から半年後、1993年(平成5年)4月8日のことでした。
 
私はいつも、心の中で自らに問うています。
「中田君に対して恥ずかしくない生き方をしているだろうか?」
「日本と世界のために頑張ろうと誓った、彼との約束を守れているだろうか?」
中田君の笑顔を思い浮かべるたび、彼との誓いを守っていこうと、決意を新たにしています。