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「投票日」

11月9日 [寛史] 
19:30 
姉・華子、弟・寛介と選対で開票を待つ。突然、肩を叩かれ、振り返ると幹事長が神妙な面 持ちで立っていた。
「出口調査で2万票離されている、身内がいると、選対の人が気を使う。いったん家に戻れ。」との事だった。
肩を落とし、両親が待機している実家に戻る。
父はいつもの椅子に深く座り視線は宙を漂っていた。
テレビでは開票速報。調査結果のことは知っている様子だった。
横に腰掛け、「どうだ?」と話しかけるが、返事が返らない。

22:00 
開票が進み、上川管内の開票が出揃う。
優勢だった。
それでも2万票差。
旭川市内で相当負けこんでいると思った。

22:30 
近しい記者から電話が入る。
5百票差で逃げ切れるとの連絡。
家族それぞれの胸に小さな灯がともる。
母がテレビに向かって手をあわせる。

23:00 
家族全員、居間で息を呑みながら、開票を見守る。95%で止まっている。
突然、『民主党候補当確』のテロップに家族全員悲鳴をあげる。
「比例だ、他のチャンネル!」父が声を荒げた。 弟がチャンネルを2つ変えた。
そして3つ目の画面には父の顔のアップがあり、アナウンサーが選挙区での当確を告げていた。
家族全員が椅子から飛び上がり、知らぬ間に泣きながら抱き合っていた。
皆口々に「やった、やった、」と叫んでいた。
頭の中は真っ白だった。
正直言って、この後10分間のことは記憶が飛んでよく思い出せない。

11月9日 [寛介]
開票率95%。なかなか結果が出ない。
リモコン担当の僕は次々にチャンネルを変えていく。
その時です。
「あっ!戻せ!」 (北海道6区今津寛当確) 家族みんなが立ち上がる。
愛犬アトムが一瞬ニヤリと笑ったような気がした。
父は笑いながら涙を流し、母に「今まで苦労かけたな。苦労かけたな。」と繰り返していた。
兄がほっぺたをつねってきた。
「おい、夢じゃないだろうな。」痛かった。
兄は今度、自分のほっぺたをつねっている。
「おい、痛くないんだよ。つねってくれよ。夢かもしれないよ。痛くねぇんだよ。」 「なに言ってんだ。」兄のおかげで現実に戻れた。
「みんなが待っている選対に帰ろう。」父が言った。
みんなの笑顔が見たい。
早く見たい。
そしてみんなに迎えられる父を見たい。
その一心で車を運転しながら選対へ向かった。
選対に着くと「寛介、おめでとう!!やったな!!」お一人お一人と握手する。
「今津ひろしをよろしくお願いします」と一緒に頭を下げてくれた方。
一緒に歩いてくれた方。
お茶を出してくれた方。
毎日夜遅くまで事務所に残っていてくれた方。
全員が苦しい選挙戦をともに戦った「戦友」。
抱き合う。
父が大歓声の中選対へ入って来た。
もみくちゃにされながら入って来た。
自分のほっぺたをつねってみた。
痛くなかった。夢じゃないかと不安になった。
青年部一心会による胴上げ、ウグイス嬢の方からの花束贈呈の後、尾崎会長の挨拶「苦節7年、まさに奇跡が起きました。」そして、万歳三唱。
父の後ろにいた僕は、その震える背中と肩越しに見えたみんなの笑顔を一生忘れない。
そして、みんなと分かち合ったこの勝利の瞬間を一生忘れない。

11月18日 [寛介]

9時30分、父とともに初登院の手続きに衆議院第一議員会館218号室を出て、国会議事堂へ向かった。もちろん初めて国会に入る私にはどこへ行けばいいのかもわからない。父の背中にただ黙ってついて行った。

9時40分、南門より入る。噴水が激しく、そしてまぶしいしぶきをあげていた。まるでドラマのワンシーンだ。たくさんの人が笑い握手し、何台も車が交差していく中、私の耳には今でも不思議ですが、水がぶつかり合う音しか聞こえなかった。 父は後ろも振り返らず歩んで行った。右手に公認証書を力強く握り、少し丸いその背中はふるさとを背負う責任感に震えているようでした。そんな父の顔を見れなかった。胸がいっぱいになっていた。

「みんなのおかげでやっとここまできたね。父さん、本当におめでとう。」ずっと思いながら口に出せなかった。
早速、報道各社から質問を受ける。
「七年ぶりに戻った今の心境は?」
「感無量です。」 初めて顔を見た。
父は、やっぱり泣いていた。 そしてついに僕も、涙があふれて止まらなくなった。 その後手続きのため国会議事堂へ入った。 後援会の皆さんに「一歩一歩俺たちの代わりに踏みしめて来てくれよ。」と言われていた赤絨毯の上を、土足でいいのだろうかと思いつつ、おそるおそる歩く。 そしていよいよバッヂを付けてもらう瞬間がやって来た。緊張しながらカメラを構える。さぁいよいよだ。失敗は許されない。

「あれ?」 係りの人が困っている。どうしたのかなと思い近づきました。 そうです。浪人期間が長く、背広の襟の穴が開いていなかったのです。

 

11月21日 [寛史]

議員会館の電話が鳴った。自民党本部からだった。
「今津先生の党の役職の件ですが、国防部会長を受けていただけるか返答を下さい」とのことだった。 以前から国防・防衛は代議士の専門分野であると知ってはいたが、今回7年ぶりの復帰ということもあり、役職にはこだわらずに政治活動をするとも聞いていた。
また、この時期、マスコミで地元の第二師団の派遣がとり沙汰されており、火中の栗を拾うがごとく、この役職を受けることで政治活動のマイナスになることも考えられた。 すぐに代議士に連絡を入れた。主旨を伝えると、一呼吸あって「お受けすると伝えてくれ」とのことだった。声のトーンがひとつ重く変わっていた。
そして、この瞬間に「衆議院議員 今津寛」のスイッチが入ったと感じた。

 

11月30日 [寛史]

午前4時、宿舎の電話が鳴った。知り合いのマスコミ関係者から、イラク郊外で二人の日本人外交官が殺害され、午前5時に外務省が記者会見するとの事であった。
すぐに代議士に連絡を取ると、「なにっ」という半ば怒ったように叫び、暫しの沈黙の後、冷静な口調で被害者の氏名・役職・状況等について私に尋ねた。
つい2日前に防衛庁の慰霊碑に献花をした際の代議士のやるせない表情を見ていただけに、その電話越しの声からは、国防の任に就く者のつらさが充分に伝わってきた。

 

11月30日 [寛介]

早朝、携帯の音で目が覚めた。東京の兄だった。イラクで日本人外交官が殺害された。理由はまだ分からない。あわてずに状況をしっかり見極めながら行動するよう、代議士には連絡済との事。自宅に駆けつけた。 代議士は居間のソファーに座りじっとテレビを見据えていた。
日が経つにつれ、地元の自衛隊第二師団を中心に部隊が編成される旨がマスコミ各社により報道されるようになってきた。 事務所に詰めていると電話が鳴る。「自衛隊は旭川市民だ。今津さんも旭川市民だ。見殺しにするのか。」「なんでイラクへ行かせるんだ。そのうち赤紙まで出すのか。」徐々にヒートアップしてくる。

代議士が地元に帰ってくるたびに「イラクへ行きたい。そしてイラクで自衛隊を出迎えたい。」という気持ちが強くなって来ているのを感じていた。しかし国会議員として、国防部会長として、自分が行くことにより現地で多くの人が動く。やめろと言っても、警備その他で多くの人が自分のために動く。本意ではない。現地が忙しいときに、迷惑はかけたくない。そして万が一の場合には自分だけではすまない。今はただ、部会長としての職責をしっかり全うする事に全力を尽くす他はない。代議士は唇を噛み締めていた。

「逆にまだ浪人中なら何の問題もなく行けたのかも知れないな。皮肉なものだ。」ぽつりと代議士がつぶやいた。 事務所を訪ねて来た方が言った。「今津さん大変だけど、頑張ってよ。」 「はい。」という代議士に笑顔はない。